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『A3』森達也著を読んで

森達也さんの『A3』を読了した。

映像の台本のような構成で、ぼく的には読みやすかった。

読んだ感想は、まだうまくいえないんだけども、

中川智正さんのインタビューのところを読んでいて強く感じたこと。

神秘体験にとらわれることだけでなく、
境地や理解、能力にいたるまで、
あらゆる体験に関して言えることだけども、

体験に執着し
その体験の度合いによって
人間の価値を決める価値観が生み出される。
そんな価値観によって生きることから
人間の苦しみの多くが生まれている。

その価値観によって生きるとは、
世界を意味のあるものと
意味のないものに分別することから始まり、
価値観を体現するものを頂点とするピラミッド社会を構成し、
そして、ひたすら上を見て生きていくこと。
下にあるものを卑下し、
ピラミッドの外に存在するものを排除しながら生きること。

うまく言えないんだけども、
そういうあり方から誰も逃れられない。

そして、誰も逃れられないからしょうがないではなくて、
ぼくらは逃れたくてしょうがなくて、
それで、また新たなピラミッドをつくりあげて
同じところをぐるぐるまわっている。

どんな体験も人間の価値に差を生み出さない世界を生み出す力をぼくらは必要としている。

神秘体験については、20歳過ぎのころさんざん体験して、
おそろしくとらわれていたけども、
念仏の教えのおかげで、相対化することができてきた。
神秘体験は強烈な体験なだけに、とらわれやすいし、
とらわれたら、そう簡単に相対化することはできない。
でも、体験が強烈なだけに認識対象となりやすい。

ところが、ぼくらの日常にひそむ意味への執着が生み出す闇は
その多くは、
世間によって正当化されることで見えなくなっている。
それが問題とされることも希だし、認識することも難しい。
世間のピラミッドからはみ出した場合にだけ、
顕在化し問題視される。オウムの事件のように。
オウムの価値観は、宗教的な別世界の価値観ではない。
この日本の社会の価値観の延長線にある。

宗教体験における強烈な意味への執着と、それによってつくりあげられる差別的な世界観を問題にすることは、単に宗教の問題性を明らかにする営みではない。
むしろ、そのことを通して、ぼくらの日常にひそむ、意味への執着によってひらかれている地獄・餓鬼・畜生の世界を明らかにしていく営みになっていかなければならないと思う。
それは、オウムを生み出したこの日本の社会という国土の因果を、
その社会を作り出している構成員の一人として明らかにしていく営み。

気づいて終わりというものではない。社会という人間と人間の関係性の中で、
人間ある限り、共に担い続けなければならない課題がそこにある。

親鸞が化身土巻において課題とされたことに出会っていくことを通して
現代の言葉で、表現できるようになりたい。

もどかしい。非常にもどかしいものをずっと抱えてる。

追記
神秘体験を相対化することができたことは、非常に希有なことなんだと思う。

ぼくにとっては、「ただ念仏すべし」の教えにであえたことに尽きる。

誰にとってもそうではないことはわかっているつもりだ。

ただ、この、あらゆる体験を相対化して人間と人間の間に差別を生み出す執着を明らかにする教えを、ぼくと同じように神秘体験にとらわれ生きる人たちに伝えれるものなら伝えたい。
伝えようと思って伝わることではないことは重々承知だ。
痛いほどに思い知らされた。

けども、ぼくにとっては、忘れてはいけない課題がここにある。

そして、その課題は、神秘体験にとらわれた者にとってしか意味の無い特殊な課題ではない。
やっかいだけども、できるかぎりのことをしたい。できるかぎりのことしかできないのでだけども。

遅々としか歩めないけども。忘れたくない。