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分陀利華の由来

 「分陀利華(ふんだりけ)」というタイトルのお便りをご門徒の皆様にお送りしていますが、その名称の由来についてお話しします。
 お正信偈のおつとめに慣れている皆さんはいつもお気づきかと思いますが、お正信偈の中に「仏言広大勝解者 是人名分陀利華(仏、広大勝解のひととのたまへり。この人を分陀利華と名づく)」とあるところからとりました。
 まず、「分陀利華」とは、どういう意味がといいますと、インドの言葉で「白蓮華」のことを「プンダリーカ」と申します。その音を写して「ふんだりけ」としたのです。白い蓮は仏様のおさとりを表します。阿弥陀様のお念仏申して生きよという願いにこたえて「南無阿弥陀仏」とただお念仏申す者は、仏さまのすべての人をすくう広大なる教えを正しく受け取った人です。そして、念仏する声は、まさに白蓮華が、仏さまのおさとりがこの世に花咲いているのであるとたたえられているのです。
 仏典には、蓮は高原の陸地には生じない。汚れた泥の中に身をおいて生きるところに蓮の花が咲くのだとあります。 この泥とは、煩悩渦巻く娑婆世界です。また、思い通りにならないいろいろなことに振り回されざるをえない世界を表しています。その泥の中で私たちはみんな共に生き、そして白い蓮の花を咲かせるのです。
 いつもご紹介する「揺れていい、悩んでいい、迷っていい」という言葉が思い出されます。問題のない悩みのない高原ではなく、泥田の中に共に悩みながら、お念仏申して生きるところに、人間として生きた証である花が咲いているということです。
コロナウイルスの騒動の中で自分の思いや都合にばかり振り回される日々を送る中に、今、「分陀利華」という言葉が私の身心を照らしてくださっています。